Loading

特集

レジェンドインタビュー

阿波踊りが唯一の娯楽
10歳のときに母親に連れられて、初めて娯茶平の阿波踊りを見ました。そのときの感動は大きくて、すぐに「自分もやってみたい」と思い、「連に入りたい」と頼みに行ったのですが、大人たちに断られました。「娯茶平は子どもをとってないから。18歳になったら、またおいで」と。
高校を卒業した昭和35年、ようやく娯茶平の入連テストを受けることができました。連の幹部が並ぶ前で、締太鼓の音に合わせて踊るという実技試験でした。20人が受けて合格したのは私を含めて4、5人でした。当時は娯楽がほとんどない時代で、阿波踊りしか楽しむものがなかった。だから、今の時代のように連員を募集しなくても、入連希望者が連に押し寄せていたのです。
入連した頃、連員は50人もいませんでした。鉦を叩く人が1人か2人、大太鼓を叩く人は3人ぐらいでした。三味線は外から人手を借りていました。女性の連員もいなかった。娯茶平は、結成当初は「オール前川娯茶平倶楽部」と名乗っており、男だけで活動するのが娯茶平スタイルでしたから、女踊りも三味線もいなかったのです。
昭和55年、7代目連長に就任しました。38歳の頃で、会社勤めをしていました。当時はサラリーマン連長は珍しく、時間にも金銭にも自由がきく自営業の方が多かった。娯茶平の先輩から「次、連長をやってくれ」と言われたときは、ずいぶん悩みましたよ。連長を引き受けると、これまでの生活が一変し、踊り優先の生活になるわけですから。妻や母に話すと猛反対されました。そこで、父に相談したんです。すると「連長をやってくれって頼まれとるんだろう。職場には代わりがおるんだろう。受けてみたら何か得られるんと違うか」と。今となっては父のアドバイスは正しかったと思います。

自分らしい踊りを
昭和40年代に入って観光客は増えましたが、阿波踊り見物に徳島へやって来ても観光地が少なくて、お客さんは昼間の時間を持て余していました。そこで、日中にも阿波踊りを見てもらおうと、前夜祭や選抜阿波おどり大会が始まったのです。照明や音響を使い、舞台で阿波踊りを披露するというスタイル。「見せる阿波踊り」の幕開けですね。
悩んだのは、どうすれば阿波踊りを綺麗に見せられるかということ。それまでは自分たちが楽しんで踊ることばかりを考えていて、誰かに阿波踊りを見てもらうという発想がなかったのです。そこで、まずは踊り子の足運びを揃えて踊ろうということになりました。統一した動きを集団で作ってお客さんに見てもらおうと考えたのです。こうして舞台構成と呼ばれる集団で踊りを披露するパフォーマンスが、数多く作られていきました。
かつての娯茶平の男踊りは、自由奔放な踊り方が許されていました。背を高く伸ばして踊る者もいれば、腰を低くかがめて地面すれすれに踊る者もいるし、横っ飛びに跳ねるように踊る者もいる。十人十色、いろんなタイプの踊り子が娯茶平にいました。「すっ飛び多田」「ドレドレの高田」「スパニッシュの貞」などと、踊り子1人1人にユニークなあだ名が付くほど、それぞれが特徴のある踊り方を持っていたのです。今、あだ名を付けらるほど個性的な踊り子は、どれほどいるでしょうか。
私はいつも男踊りの最前列で踊っています。本番4日間に私の左右で踊る連員を決めるのですが、「この桟敷はお前とお前で行こう。どれぐらい上達したのか見てやろう」という具合に選んでいます。桟敷ごとにメンバーを変えて、あらゆる踊り歴の連員たちと踊っています。男踊りの間で「今年はわしが連長の横で踊るんじゃ」と、競い合いになっているみたいです。一緒に踊ってみると、踊り子が何を考えて踊っているのか手に取るようにわかりますよ。私と一緒に踊った経験から、自分らしい踊りを作るヒントをつかんでもらえると嬉しいですね。

娯茶平が進む道

 平成に入った頃から多くの連が、お囃子のテンポを速くしていきました。お客さんの受けもよく、アップテンポの連が桟敷を流すとみんな、そちらを振り返って拍手を送っていました。一方の娯茶平は、結成から変わらぬスローテンポ。そのスタイルを頑なに守り続けていましたが、入連希望者は減っていく有様でした。平成10年頃には連の幹部を集めて「娯茶平のお囃子もテンポを速くした方がいいのでは」と、相談したこともあります。高円寺の姉妹連・飛鳥連の当時の連長にも悩みを話しました。「娯茶平もテンポを速くしたい」と。すると連長は涙声になり「飛鳥連は娯茶平のお囃子に惚れ込んだから、姉妹連の提携をお願いしたんですよ。絶対にお囃子を変えないでください」と話しました。その言葉に私は目が覚めました。
しかし、お囃子のテンポを変えなくとも、何か新しいことに挑戦しなければならないと考えていました。そこで、平成11年に笛を吹く連員を50人集めて「赤笛隊」を作りました。赤笛隊は、鳴り物の先頭に立ち、漆塗りの笛を全員で吹くスタイル。新聞には「朱色が映える横笛の大集団、娯茶平が赤笛隊結成」と、大きく報じられました。また、平成13年には「三味線娘」をデビューさせました。5人の若い女性が、赤い提灯と編み笠を背中の帯に挿して、昔ながらの出で立ちで三味線を弾くのです。こちらも大人気でした。
娯茶平の踊りは、お客さんの目に地味と映るかも知れません。男踊りは地面の一点を見据えて、這うように踊っていく。お囃子は特別に緩急を付けるわけもなく、ゆったりとしたテンポで粛々と流していきます。この姿勢にこだわるのは、私たちが「情」を大切にした、味わい深い踊りを追求しているからです。このスタイルはこれから先も変えることはないでしょうね。

阿波踊りに必要な「間」
 平成20年3月、「阿波よしこの」の名手・お鯉さんが亡くなる少し前のことです。徳島市内のホテルでお鯉さんと共演する機会があり、出番が終わるとお鯉さんから「お茶でも飲んでいかんで」と誘われました。お鯉さんは「阿波踊りで一番大事なのは、何やと思う?」と尋ねてきました。私は少し考えて「間を取ることが大事やな」と答えました。お鯉さんは「やっぱりな」と、明るい声でおっしゃいました。「私もそう思う。三味線も唄も間が大事なんよ。間がない人間は間抜けじゃ」って、ジョークを交えて笑っていました。お鯉さんと考えが同じだったことは、嬉しかったですね。
 娯茶平に新人が入ってくると、最初の数年間は、形にとらわれた踊り方を徹底的に指導しています。しかし、その後は自分たちで学んでいってもらわなければなりません。そして、最後に行き着く先が「ため」や「間」、それに「情」です。連員に「情のある踊りをやりなさい」と指導するのですが「どんな踊りですか」と聞き返されると、具体的な形を示すことができません。そこが阿波踊りの難しいところであり、阿波踊りらしいところでもあるのです。阿波踊りに「情」が生まれるには、まずは「ため」ができて、次に「間」ができて、といった順序があります。そして、長い修行の末に初めて「情」のある踊りを手に入れることができるのだと思います。

連長の仕事とは
 いろんな方から「娯茶平の伝統を受け継ぐのは、大変でしょう?」といわれます。伝統をただ受け継ぐだけでは駄目です。その伝統は少しずつ目減りしていき、やがてゼロになってしまうのです。伝統を受け継ぐということは、全体の90%を守りつつ、残りの10%を新しく創造していかないといけないのです。攻めの姿勢を持たないと、伝統を守ることはできないというのが持論です。守りの姿勢だけでは、伝統はいずれ衰退します。
 県外の阿波踊り大会に出かけると、徳島の有名連のパフォーマンスを真似た演舞を見かけることがあります。パフォーマンスに重きを置いて、肝心の流し踊りをやらない連も少なくありません。私は、踊りそのものでお客さんを魅了してほしいと思いますね。野球に例えると、20%はカーブやスライダーのような変化球を使ってもいい。しかし、80%は直球で勝負してほしいのです。直球、すなわち流し踊りをしっかりと見せてほしいというのが私の希望です。
 娯茶平のちびっ子踊りに在籍している子どもたちは、卒業すると大人のパートに移って、阿波踊りを続けています。また、他連から移籍してくる人も少なくありません。反対に、娯茶平を辞めていく人は少ないので、連員数は年々、増加傾向にあります。人数が増えるのはありがたいですが、果たしてどれくらいの人数が適正なのか。衣装や楽器の購入、練習場を借りる費用など、連を維持していくにはいろいろと経費がかかります。娯茶平の連員数は現在380人ですが、連全体に目が行き届くには100人ぐらいの規模が一番いいのかも知れません。
 阿波踊り連は社会の縮図です。娯茶平もしかりで、連員の年齢は子どもからお年寄りまでさまざま。職業も公務員や会社員から自営業、学生、主婦とさまざま。多種多様な人々が集う団体が阿波踊り連で、その連をまとめるのが連長の仕事です。連はあくまでも趣味の集団です。連員それぞれが、いろんな価値観を持っていますから、まとめるのは大変です。38年間、連長を続けてこられたことに大きな達成感を持っています。ひとえに連員、職場の皆さんのおかげです。加えて、今は亡き両親の深い愛情と、妻をはじめ家族の温かい支えがあったからこそ、さまざまな苦難を乗り越えられました。このような素晴らしい境遇を与えてくれた皆さんに、深く感謝しています。


プロフィール
昭和16年5月8日、徳島県徳島市生まれ。昭和35年、娯茶平に入連。昭和55年8月、7代目連長に就任。男踊り一筋で、今も現役の踊り子として活躍する。体力を維持するために、毎日のトレーニングを欠かさない。阿波踊りを通じて、数多くの文化人、経済人と交流を深めている。平成20年より徳島県阿波踊り協会副会長。

鳴り物特集

関連記事

  1. ポスターモデルインタビュー

    2018.07.04
PAGE TOP